シルバーバーチの霊訓より
  (霊訓の本の中から皆さんへお伝えし、共に学ぶことができれば幸いです。)  
       

シルバーバーチや訳者についてはこちら
                              
                         
    
2005年10月5日(水)


地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば「良心」が進むべき道について的確な指示を与える、というのが私の考えです。

神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。

問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面が出しゃばりはじめることです。

偏見がそれであり、欲望がそれです。

良心の命令を気にくわなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何か他によい解決法があるはずだといい訳を始め、しばしばそれを「正当化」してしまいます。


しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております。

  
パッと浮かんだ行動を正しいことと思ってやろうと思っていても、
   ぐずぐずしてるうちに(まぁ〜いいか〜)となり楽な方へ行ってしまったりする時など、
   後あとまでも心に重いモヤみたいなものが残りますね。
   自分の良心はちゃんと知ってるし忠告してくれてるのでしょう。

2005年10月3日(月)

祈りは叶えられるものでしょうか

叶えられる時もあります。祈りの中身と動機次第です。

人間はとかく、そんな要求をかなえてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。

そもそも祈りとは人間が何かを要求してそれをわれわれが聞き、会議を開いて検討してイエスとかノーとかの返事を出すのとは違います。


祈るということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自分自身を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です。

   祈りの中身や動機・・・・自我からの欲求でないか?と自分の心の底をよく観察しなければいけませんね。
       嫌いな相手から自分が楽になりたいから祈るのと、
         その人の魂が救われるように祈るのではまったく違っています。


 

2005年10月2日(日)


人生は釣り合い、照合、再照合、そして埋め合わせといったことの繰り返しであることを認識してください。

しかし、このことだけは認識し、安心なさってください。
私がその代理人をつとめている高級霊の力・・みずからその通路となることで甘んじている霊力は、宇宙のそのものだということです。

私の背後には数え切れないほどの進化の段階があり、そこには私たちよりもはるかに向上進化した霊団が幾重にも控えております。

その意味では私にはおよそ霊格の高さも魂の成長度も誇れる立場にはありませんが、真理に飢えた魂にあふれた世界が待ち望んでいるメッセージを十分とは言えないまでも、お届けする道具として役立ったことは断言できます。

その信頼は決して無駄には終わらせません。
より一層の理解をもたらす道へ私がかならずご案内いたします。

 
この世に真実を伝えようとする力は想像もできないほどの大きなものなんですよね!
 神に近い霊団が見守り導いてると思うと本当に心強いものです。
 一人孤独になって肩に力を入れて生きてる人に、 ぜひ多くの霊や多くの愛、
 そして人類さえも一つなのだと知って、安心し満たされてほしいですね。

2005年10月1日(土)

あるメンバーが早くからこの知識を知っていたら・・と後悔の念でいることを話すと・・。

もし早くから知っておれば長い年月を無駄にすることはなかったとおっしゃいましたが、私に言わせれば、むしろその荒野に叫んだ時間が無かったら、あなたの存在価値は今ほど大きくなかったと思われます。

真理探究に没頭した年月・・追及してはつまずき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながらも遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった・・・・
そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのです。

行く手にころがる石ころを一つ一つ取り除いてもらい、困難は生じる前に簡単に片付けられ、いかなる障害が地平線に浮かんでも、まるで魔法のように消されてしまうような人生を送っていては、未発達で、何の試練も体験しない、幼稚な霊をこしらえることにしかなりません。


あなたが他に及ぼした(悪い)影響を必要以上に誇張してお考えになってはいけません。
その人たちはその人たちなりに、そうした誤りを通して学んでいかねばならないのです。

葛藤と困難。苦悩と障害は霊性に開発にとって必須に要素なのです。
たとえあなたが霊的知識を早くから知っていたとしても、相変わらず葛藤は葛藤として続いていたことでしょう。


    生きてる間、内容は違えども葛藤は続くのが人間ですものね。
    その内容を高度にしていきたいものです。
    自我からくる葛藤を少なくし、人のために悩める自分になりたいです!

   
2005年9月30日(金)


霊媒ベイリー女史 「ときどき人間の探求は表面的すぎるという印象を抱くことがあります。
             ですからその背後に働く単純な現実を理解させるのが難しいのです。」


おっしゃるとおりです。しかし私たちの世界には、かつて地上で一見とても勝算はないと思えた逆境の中で、長いこと忠誠心に燃えて戦った古強者がたくさんおります。
彼らはその仕事が引き継がれ少しずつ成果が実っていくのを見守っています。

私があなたがたにひたすら前進しなさいと申し上げるのはそのためです。
あなたがたは霊的知識を広めることだけを考えておればよろしい。

理解力を広めるのです。思いやりの心を広めるのです。

光明へ向けて進むべきものを引き止めんとする勢力を打ち砕くのです。

私たちが掲げる光明はけっしてささやかなものではありません。

なぜなら、いったん霊の力がいかに働きかけてるかを知ったら、いったん死の扉を開くカギを手にしたら、いったん死の向こうに広がる生命躍如たる世界をご覧になったら、その時こそその人は霊的実在を理解し、神の永遠の計画の中における自分の位置を悟ることになるからです。

あなたはひたすらご自分の信じる道を突き進まれることです。


      世界中に昔から多くの霊媒がいて、死後の世界を見てきてるのですよね。
      日本にもシルバーさんが言うような志の霊媒がドンドン増えていって、
      霊媒同士でも交流をし切磋琢磨しながらも人々へ目覚めと癒しを与えていってほしいものです。

2005年9月29日(木)


肉体は霊が自我を表現するための道具です。
存分に発揮したいと思われれば、十分な手入れをしなくてはなりません。

疲労が重なると本来の機能が発揮できなくなります。
そこで神は、その無限の叡智によって、肉体を休養させ、活力を取り戻させるための「睡眠」を用意したのです。


地上の四季の移り変わりをよくご覧なさい。秋になると大自然は冬の眠りのための準備をし、春になると再び目覚め、夏にその壮観を披露します。
人体も同じです。休息によって元気を回復しなければなりません。休息はぜひとも必要です。

    
あれこれと考え出すと睡眠不足になりやすいですが、大切な自分の魂を守るためにも、
     よい活動をするためにも休息をしっかりとりながら生きていくことも大切なんですね〜。

2005年9月28日(水)


あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば、外部にも完全な平静が訪れます。

物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼす物は何一つありません。
かくして、訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります。

いかに優れた魂にとっても、そこまでは容易に至れるものではないでしょう。

しかし、人間が苦しい状態に陥ると、それまでに獲得した知識、入手した証拠をあらためて吟味しなおすものです。
本当に真実なのだろうか、本当にこれでいいのだろうか、と自問します。


万事がうまく行ってる時に信念を持つのは容易です。
が、信念が信念としての価値を持つのは暗雲が太陽をさえぎった時です。

それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません。

   平静な心を保つことで、同じものを引き寄せてくるのでしょうか。
    昔の人は、山奥などにこもり人里離れて祈り修行をしていたのでしょうが、
    今はそうは行かない時代ですから、難しいことです。
    でも、この法則を知っていれば利用しないのはもったいない!
    人のためでなくまずは自分の心の静寂と穏やかな環境のために気持ちを切り替えられますね。

2005年9月27日(火)


寛大であれというのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきか・・残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずですが。


悪は何かということを見極める必要があります。
地上生活の究極の目的は「死」と呼ばれる現象のあとに待ちかまえている次のステージに備えて、内部の霊性を開発することにあります。

開発すほど洞察力が深まります。
霊性が開花され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。

これは、悪や残忍さや不正に大して寛大であれという意味ではありません。
相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。

人間は往々にして自分のしてることの意味がわからずに、まったくの無知からの行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。

しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。
それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。


真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。

 洞察力ですね・・自分の心が悲しみ苦しみでいっぱいの時はこれはまったくのゼロになっていますよね。
  まずは自分を癒すことをやらないと人への優しさも思いやりも出てきません。

2005年9月26日(月)


多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。

「死」の恐怖を取り除き、「愛」が死後もなお続きその望みを盛就している事実を示すことが出来るようになりました。

インスピレーションは(イエス時代に限らず)今なお届けられれるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことができること、(宗教的束縛から)精神を解放することが可能であること、
自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たず魂が存在している事実を立証しております。

これほどまでに美しい話、これほどまで分かりやすい話、人生の本質をこれほど簡明に解き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。

光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を歩むのでしょうか。
なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。


 ほんとに何故なのでしょうか?
 でも、そういう自分も我が子を見送るまでは生活の中心にあったものは目に見えることばかりでした。

2005年9月25日(日)


私は余暇を利用して人のために何かしたいと思っているのですが、何をしたらいいのか分かりません。何かアドバイスを頂きたいのですが・・。

距離的にも霊的にも、あなたはずいぶん長い旅をしてこられましたね。
しかし今こうしてこの交霊会に参加していらっしゃると言う事実が、霊力というものがイザというときに導いてくれるという証明です。


道はそのうちに示されます。導きを祈ることです。
あなたはこれまでの人生でもう少しで人間への信頼を失いそうになるほどの精神的打撃も受けてこられました。
しかし信頼を地上の人間にのみ置いてはいけません。


疑念が生じた時は精神を統一して物質界からの喧騒から逃れるのです。
すると霊的理解が得られます。
統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものが深まり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信を持つことができるようになります。


あなたは今すばらしい御手に抱かれています。決して一人ぼっちにはされません。
時がたつにつれて人にために仕事をするチャンスが背後霊によってもたらされてまいります。


  
 何かしなければと焦っても仕方ないということですね。
   静かな心になって指導霊からの導きを待ち、展開してくることに素直に従うことが、
   結果的には最良のチャンスとの出会いに繋がるのでしょう。

2005年9月24日(土)


ある人はこんなことを言います。

「私たちは施しをします。が、施しを受ける者はまずは神に感謝しなければいけません」と。

施しをしたあと、その相手がそのことを神に感謝しようがしまいが、そんなことはどうでも良いことではないでしょうか。

お腹をすかしている人がいれば食べ物を与えてあげる、それはよいことですが、

「どうぞ、うちで泊まっていってください。ですが、ちゃんと神にお祈りをなさってくださいよ」などと余計なお説教をしてはいけません。

 はぁ〜。与えるだけでいいのですねぇ〜、それができれば本物でしょうか。(><)

2005年9月23日(金)


愛し合う二人のうち片方が先に他界した場合、残された方がのちに他界した時に間違いなく幸せの楽園が待ってくれてると考えてよいのでしょうか。

その通りです。
ただし、互いに愛し合った場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。
愛はその対象から切り離して存在することはできません。

地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません。肉体に不老不死はありません。
ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。

そして又、いずれは自分も後から行って、地上では想像もできない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください。
 
 
地上生活よりはるかに素晴らしい世界で生活してる我が子たち、
 そこでの一緒になれる次の生活のために私たちは今日も1日を大切に生きよう!

 

2005年9月22日(木)


霊的に向上していくと、光とその光によって生じる影との区別ができるようになります。
地上的縁には拘束力はありません。霊的な縁こそ永遠に続くものです。


なた自身にとって大変な悲しい出来事のように思えることも、
実は他の大勢の人たちのためにあなたを役立てようとする計画の一端であることがある、ということです。

あなただけの個人的な見地からのみ眺めてはいけません。
その体験を通じてもし大勢の人々の魂が鼓舞されることになれば、それがひいてはあなた自身の魂の成長を促すことになります。

そして、あなた自身がこちらへおいでになり愛する人と再会された時にも、それが大きな拠りどころとなります。


  計画の一端なのですね・・とにかくあちらへ行った時に我が子に褒めてもらいたいですよね!

2005年9月21日(水)


疑い深い人につける薬はありません。
何でも疑ってかかる人は自分が納得いくまで疑ってかかればよろしい。
納得がいけばその時にはじめて疑いが消えるでしょう。

私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争ってる人とは違います。
すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。
もっとも、すべてを悟ることは出来ません。
すべてを悟れるほどの人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。
少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。
すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。

激論しあったり、論争を求められたりするのは私はごめんこうむります。
私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさしあげるだけです。
お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、「そうですか、それは残念ですね」と申し上げるほかありません。


 地上学校・・何を学びに私は来たのかしら?と思いますね〜。

2005年9月20日(火)

私たちはいつかはかつての地上での仲間や親族のいる境界へと向上していき、ずっと一緒に暮らせるようになるのでしょうか。
 
その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。
ですから、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。向上の道は常に開かれております。完全へ向けての永遠に続く奮闘です。
 
        上から下へは会いにこれるそうですね・・
    我が子と一緒にまた暮らしたいから何とか自分の霊性を高め向上したいものです。
 
2005年9月19日(月)

とにかく前向きに進むほかありません。引き下がってはなりません。
どこにいても人のためになることを心掛けるのです。
援助を求めてあなたのもとを尋ねる人をけっして拒絶してはなりません。かといって、そういう人を求め歩いてはいけません。向こうからやってくるものなのです。

あなたの援助を求めて先方から駆けつけるものなのです。
(そういうふうに霊界の方で取り計らってくれるということー(訳者)
 
 本当にそうですね〜、向こうからやってきますね、霊界の子供たちに手を取られて導かれて・・。
 私もそうやって助けられてきた一人です。
 
2005年9月18日(日)

もしもうんざりしたり困惑したり悲観的な気持ちになったりした時は、地上の騒音から逃れて魂の静寂の中へ引っ込むことです。

そうしてそこに溢れる豊かな光輝に馴染み、美しさに思い切り浸り、そこから得られる静けさと落ち着きと安らぎと自信を味わうことです。

こうして気分一新してから再び地上世界へ戻り、はつらつと仕事を始めるのです。
 
 魂の静寂・・瞑想ですね!
 意識がトランスになってる時、その時こそあちらからの癒しやメッセージが届きますね〜。
 瞑想でこの世を一時離れて元気になりまたがんばりましょう

 (注意・・泣いてしまってはだめだよん。私たちにはむずいですが・・慣れるまでがんばるしかないのです)
 
2005年9月17日(土)

敵にも見方にも立派な魂を持った人がいるものです。
ですから動機とは何か・・それが一番大切です。

こうすることが人のためになるのだと信じて行うのであれば、それがその人にとっての正しい行為なのです。
知恵がたりないこともあるでしょう。しかし、動機さえ真剣であれば、その行為が咎められることはありません。

なぜなら魂にはその一番奥にある願望が刻み込まれていくものだからです。
 
 結果はどうであれ、自分がどんな気持ちで行動したかを思い出して、
 自分の魂に恥じなければそれはOK〜ということですね!
2005年9月16日(金)


悪とは同じエネルギーの用途を誤ってるということで、

あなたが悪い奴らと思ってる人間は未熟な人間ということです。
その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。

自分から「悪人になってやろう」と思って悪人や利己主義になる人間はめったにいるものではありません。
悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。
聞き分けのない子供みたいなものです。

目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。
利己主義とは利他主義が方向を間違えたにすぎません。

善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。


    (この人〜)と腹を立てそうになったら、
    エネルギーの使い方を知らないだけなんだと思えばいいかもね^^;

2005年9月15日(木)

いわゆる幽界でも低級な境界にはまだ貪欲と権力欲とかが存在します。
忘れてはならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前とまったく同じであることです。
地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。
 
私たちから皆さんを見ると、身体は影にように見え、皆さんが心に思ってる事の方が実体があります。
このことはなかなか説明が難しいのですが、たとえば皆さんが夢を見てるのと同じだと思えばよろしい。
夢の中に現れるものは夢を見てる間は実在です。
もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。
 
 物質界に生きてる人間には理解しがたいことが向こうにはいっぱいあるんでしょうね。
 魔法使いになったような生活なんでしょうか・・。
 こどもたちは楽しんでいると思いたいものです!
2005年9月14日(水)

神(宇宙)の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻ってくる真の目的を理解していない人たちからよく非難されます。
しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。
この世には大自然の摂理しか存在しないのです。

それをあなた方が宗教と呼ぼうと化学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもいいことです。
誰であろうと、一個人であろうと大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと・・
摂理の働きは完璧です。
ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と破滅が絶えないことでしょう。
物的なものしか目に映じない人は、幻影を追い求め永遠を忘れ過ちを犯します。
 
  物質的なことよりも目に見えない世界を一番に考えれば、喧嘩の仕方一つも変わってきますね!
         まずは自分のまわりや家族の中でのもめごとを大きな視野で眺め、
          霊的真理をあてはめて行動するように心掛けたいものです〜。
 
2005年9月13日(火)


人間が戦争が起きると「なぜ神は戦争を中止させないのか」
「なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか」と言って私達を非難します。
しかし神の推理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。


自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考え方は許されません。
神の推理は私達さえも変えることはできません。
蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。高慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心・・・こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違いとなります。


  神様や運を恨んでもしかたないということでしょう。
  根本的な原因を正しく理解することが何ごとにも解決の道を見出す手助けになるのだと思いますね。

2005年9月12日(月)


あなた方が地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力・・・それが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は例外なく具わっております。

あなたにとって正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。
なぜならあなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。


  人のことをつい心で裁いてしまいますが、自分と人とでは問題集が違うのだからと思えば、
  どんな人のことも納得したり許したりできるのかもしれないですね。その方が自分も楽になれるのでしょう。

2005年9月11日(日)

地上のいかなる体験も、それに正しく対処し理解すれば、人間の魂にとってかならずプラスになるものを持っております。
いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。
 
 マイナスの出来事をプラスに変換するのは自分自身の対処の仕方一つなんだろう。
 自由意志が与えられてる人間の選択・・それが今後の人生を創造していくのですね。
 
2005年9月11日(日)

体験のすべてが霊的進化の肥やしです。
そのうちあなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。
そうすれば羽陽曲折した一見とりとめもない出来事の絡み合いの中で、一つひとつがちゃんとした意味をもち、あなたの魂の目覚ませ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。
 
 肉体の束縛から解放された子供たちは、親の人生を見て冷静に見守ってるのですね。
 だから、そのことを忘れないようにしながらもゆっくりと行けばいいんですね。
2005年9月10日(土)

人間が幽体で旅行する話を聞くことがありますが・・。
 
いたって簡単なことです。
幽体が肉体から抜け出て、時には私たちの世界へ、時には地上の遠隔の地まで旅行するのです。

実は睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行しております。
一時的に肉体を離れて私たちの世界を訪れ、縁ある人たちと会っているのです。
皆さんは毎晩死んでると言ってもよいのです。
 
   夢であちらの世界へ行った記憶はなく目覚めると忘れてしまうことが多いそうですが、
   こどもたちは私達と会って何も寂しい思いをしないで済んでるのかもしれないですねぇ〜。
 
2005年9月9日(金)

魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。
それが両極の原理です。
すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。
憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした「対」は同じコインの表と裏の関係にあるのです。
 
  人間は低く落ち込み、どん底までいかないと目を見開いて心に入れることができないんですよね。
 
2005年9月8日(木)

人生体験が霊的に見てどのような意味をもっているかをご説明いたしましょう。

地上の人間は、何故苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、
それらに遭遇することによってまず浄化を起こさせ、続いて精神的革命の触媒となるものとして霊的真理を学ばせる機会を提供してくれてる、魂がぜひとも体験しなければならない挑戦課題なのです。
 
    やはり挑戦していたんですね。
  皆さんが意識の高い人が多くの苦難を受けてる意味がつながります。
  宗教的な・・業が深いとか因縁とか・・そんな理由からとはまったく違うことなんだと思うとホッとします。
2005年9月7日(水)


あなたが霊的存在であるということは、あなたも内部に無限なる宇宙の神の一部を宿してるということです。
同時に霊的な力も宿してるということです。

私達の仕事はこうした霊的真理を一度に一人ずつ、受け入れる準備の整った魂に教えていくことです。
この点を特に強調しておきます。、それが偽らざる真実だからです。


諺にも「馬を水辺まで連れて行くことは出来ても、水を飲ませることはできない」というのがあります。

受け入れるにはその準備ができていなければいけないということです。
あなたも暗い影の谷間を通り抜けるまでは、真理を受け入れる用意はできていませんでした。
その間の体験が、こうした基本的な永遠の霊的真理を理解しはじめる端緒となる決定的な手段ないし触媒となったのです。


 暗い谷間を通り抜ける・・
 大きな底なしの穴に落ちたように感じる時間が続いて、もう這い上がれないと思って・・
 でも、思い込んでるのは自分で・・そんなに深い穴でないのかもしれない。
 そこから出るためには自分の力なのでしょうね。上を見て出よう思うこと。
 水を飲もうとする馬のように・・・。

2005年9月6日(火)


人類がいかに永いあいだ道を見失ってきたかご存知でしょうか。
霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。

宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。
儀式と祭礼を発明しました。
教会・寺院・礼拝堂などを建設し、神との人間の間に仕切りを設けたのです。
わが宗教の経典こそ本物だと主張し合いました。
宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。
預言者・霊覚者・哲人・聖者をすべて追い払いました。
開かれたビジョンを閉ざし、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。

聖職者の中にも高徳な人物は数多くいました。
ただ、その人たちも(そうした環境の影響のために)
人類に本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚になっておりました。

    宗教を信じるのは自由だけど、その宗教に自分が縛られ、
    強迫観念に迫られて行動してる人が多いのを私も見てきました。

    ご利益宗教・・00したら幸せになれる・・
    それだったら私たちは行いが悪かったから子供を亡くしたのか?ということになります。

    私は納得できません・・普通にまじめに生きてきたもの。

2005年9月5日(月)

霊的なエネルギーは生命活動を操るエネルギーです。無知な人、偏見を抱く人、迷信に動かされる人は、自分でいくつもの精神的障害をこしらえ、その一つ一つが霊力の働きの障害となります。
それがいったいいつになったらつき崩せるかは、その障害の性質によります。
 
       自分でも自分の今の心の状態がわからなくなっていることがある。
     あちらと通じるカギは何なのか・・自分で学ぶしかないのかもしれませんね。
2005年9月4日(日)

絶対に許してならないことは不安の心に居座らせることです。
取り越し苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕みます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。
事態を明確に見極めることを妨げます。
 
いかなる人間も自分で解決できないほどの問題はけっして与えられません。
内在する神性を発揮されるような心掛けをしておればの話ですが・・。
 
地上の人間はまだまだ内在する霊的属性のごくごく1部しか発揮しておりません。
その霊力を呼びさまされて勇気と知恵とを与えてくれますが、本来はいつでも引き出せるものです。
 
病気を治し、迷いの時に指針を与え、悩みの時には指導を与え、疲れた時には力を与え、
視野がさえぎられている時には洞察力を与えてくれます。
 
それを可能にするのはあなたの心掛け一つにかかっております。
 
  <心掛け>・・難しいですが、できないと言ってしまえばそれまで。
   みんなでお互いに刺激しあって意識できるようにがんばってるのがこのHPです^^。
2005年9月3日(土)

次々と生じる難問に動じてはなりません。困難は挑戦すべき課題です。
困難もなく難問もなく、障害もないようでは、潜在する能力を発揮するチャンスがないことになります。

人間は危機に直面してはじめて、自分の奥に思いもよらなかった力があることに気づきます。
その潜在力と背後霊の導きをもってすれば、克服できないほどの大きな困難はありません。
 
 大きすぎる困難にあってしまったけど、克服まではいかなくとも、
 何とか生きていながら死んでるような生き方だけはしないようにがんばるしかないですね。
 一人では無理ですし、死後の魂を信じなければ辛いものがあります。
2005年9月2日(金)

交信状態がかんばしくないときがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないときがあります。
霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、頑なに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。
 
しかし私たちがより開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代わってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。
 
 霊媒の人は常に自己の霊性を研磨していかなければいけないですが、
 霊界からの知識を広めるという素晴らしい価値ある仕事ができるのですね。
  
2005年9月1日(木)

霊媒の口をついて出るものを全部鵜呑みにしてはいけません。
あなたの理性が反発するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。
理に適ってるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。
何でもすぐに信じる必要はありません。
あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。
 
 証拠もなく予想で言えるような内容を言われても信じてはいけませんね。
 日本にいったい本物の霊媒はどのくらい活躍してるのでしょうか・・。
 不安にさせお金を取るばかりの霊媒はいりませんね。
2005年8月31日(水)

進化の階段を登れば登るほど、改めるべきものを意識するようになるものです。
私は進化は永遠ですといい、宇宙には始まりも終わりもありませんと申し上げるのはそのためです。
無限に続くのです。人生は一本調子ではありません。

光と影・晴天と嵐・喜びと悲しみ・愛と憎しみ・美と醜・善と悪の双方が揃わなくてはなりません。
人生はそうした比較対照を通してのみ理解できるものだからです。

闘争・奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。そういう摂理になっているのです。
 
 確かに・・(><)
 のほほ〜〜んと一生を暮らしてるような人を見ると羨ましくなってしまうけど、
 気づきも進化もないってわけね〜。
 
2005年8月30日(火)

神の愛が人間の最低の感情の一つである憎しみの中にも存在するということが理解できないのですが。
 
神とは法則なのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。
晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。
 
太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。
 
あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。
 
その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断がゆがみ、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。
 
愛と憎しみは表裏一体です。
 
もしも、日向にばかりいたら日光の有りがたさは分からないでしょう。
人生も同じです。苦しみを味わえばこそ幸せの味がわかるのです。
 
 苦しみの中で神を恨んだこともありました。
 でも、そうではなかった・・神さま(法則)はどんな試練の中でも私たちを応援する存在なんですね。
2005年8月29日(月)

善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何かとがめを受けますか。
 
私にはその善人とか悪人とかの意味がわかりません。
要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけの人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。
知識はないよりは有った方がましです。がその人の真の価値は毎日をどう生きたかに尽きます。
  
 昨日までは後悔ばかりの毎日だったかもしれないけど、
 このことに気がついたのならもう後ろを振り返るよりも
 今日という日を泣きながらでもいいから精一杯生きることが大切なんですよね!
2005年8月28日(日)

私たちは囚われた状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的をもって一大軍団を組織しました。お伝えする真理はいたって単純なものなのですが、それにはまず証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。

すなわち偏見を捨てて真摯な目的、真実を知ろうとする欲求を臨むものなら誰にでも得心がいくものであることを明らかにしなければなりません。

あなた方の愛する人々はそちら側からチャンスを与えてくれさえすれば、然るべき通路(霊媒)を用意さえしてくれれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。
 
  証明がないと信じられないという気持ちになる人は、まずは自分で体験すればいいのだと思います。
   それから正しい判断を自分ですればいいのですよね。
2005年8月27日(土)

私たちすべてが治病能力を具えているのになぜ心霊治療家の存在が必要なのでしょうか
 
神の摂理を知らない人が多すぎるからです。
みんなそんな摂理なんかあるわけがないと思い込み、
健康を回復する法則を実践できる段階まで意識を高めることができないと決めてかかっているからです。

神の摂理に従って生きれば病気も異常も生じません。

肉体に異常が生じるのは摂理に反した生き方をしてるからです。
(霊と精神と肉体の)調和が乱れると病気になり、自分自身の努力、また霊界からの治癒エネルギーによって調和を取り戻すまでその状態が続きます。
 
 私たちの心は乱れ、不規則な生活に追い込まれますが、それは調和が乱れて必ず病気になります。
 体調が悪いと気持ちも落ち込み悪循環になってしまう・・
 何とか調和を保つように生きる生活・考え方を身につけていきたいものですね。

2005年8月26日(金)

この世の生きる目的は霊的なものを制約するものを排除し、霊的本性が肉体を通してより多く顕現するようにすることだと私は理解しておりますが・・
 
その通りです。地上生活の目的はそれに尽きます。
自分を単なる肉体であり他の何ものでもないと思い込んでいる人は大きな幻影の中で生活しており、いつかは厳しい実在に目覚める日が来ます。

その日は地上生活に訪れるかもしれないし、こちらへきてからになるかもしれません。
地上にいる時の方がはるかに魂の成長と進化と顕現のための条件が全部そろっています。
 
ですが霊的なことのみにこだわって人間としての義務を疎かにすることは間違っております。
つまり身体は神聖を帯びた霊の「宮」として大事にし、管理し、手入れをする。
すると成長と進化の過程にある霊が身体を通してその成長と進化の機会を与えられる、ということです。
 
 我が子がいない生活に自分の身体のことなど考える余裕もなくなる日が続きますが、
 霊的な学びを深めながらも、霊の入れ物「宮」を大切にしなければ子供たちは喜びませんね。
 
2005年8月25日(木)

死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。
死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。
 
その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチするための霊的感覚を発揮しないかぎり、それが認められないというに過ぎません。

個別の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面にすぎません。
 
  子供たちの方からはこの世は近くて何も寂しい思いやじれったい思いをすることはないのですよね!
             家族は見えない感じないから苦しいですが、
         我が子は生前通りに私たちの行動を見て愛を感じています。
   自分が苦しいのはまだ我慢しましょう・・あの子さえ寂しい思いをしていないのであれば。
 
2005年8月24日(水)

豚に真珠を与える勿れと言ったイエスの真意は何でしょうか
 
自分では立派な真理だと思っても、受け入れる用意のできていない人に無理やりにおしつけてはいけないということです。
 
拒絶されるから余計なことをするなという意味ではありません。
拒絶されるなら、イエスの生活は拒絶の連続でした。
 
そんな意味ではなく、知識、真理、理解を広めようとする努力が軽蔑と侮辱を持って迎えられるような時は、そういう人たちは見る目を持たないのだから、美しいものを無理して見せようとせずに身を引きなさいという意味です。
 
           身を引いて見守ることも大切なのですね・・。
 
2005年8月23日(火)

何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患やその他の病気を背負ってこの世に生まれてきます。これは公平とは思えません、子供には何の罪もないのですから、この問題をどうお考えでしょうか。
 

不公平を口にされるのは問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えにならないからです。
 
霊そのものは病気なんかにはかかりません。霊は不具になったり奇形になったりはいたしません。
霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても、霊そのものをかえることはありません。
 
確かに地上的観点からのみ人生を見れば、病弱な身体を持って生まれた人は健全な身体を持って生まれた人よりも物的には不幸の要素が多いといえますが、その意見は霊には当てはまりません。
 
からだが病気だから霊も気の毒で、からだが健全だから霊も豊かであるという方程式は成り立ちません。
実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるということの方が正しいのです。
 
           多くの進化を望む高度な意識の魂だからこそ、
  ハンディを持って生まれたり途中で背負ったりする人生を
計画すると考えられますね。
          故郷に戻ったとき満足し喜びがいっぱいあると思う・・・
        苦労した分の何百倍の大きな光のご褒美ももらえることでしょう。
 
 
2005年8月22日(月)

物的財産は一時的な所有物にすぎません。所有物といっても真に自分のものではなく、ただの一時的保管物にすぎません。

一方、霊的財産は錆びることも色あせることもありません。
人のために自分を役立てることほど立派な行為はありません。
それが霊の通貨(コイン)なのです。

自分より恵まれない人のために手を差しのべていれば、そのうち自分の生きる道がきっと啓示されます。

あなたが窮地にあって啓示を受けられたように、窮地に置かれた人があなたの手の届くところまで導かれてくるようになるのです。
 
      あの世へは何も持って行けないけど、霊的財産はちゃんとお土産に持っていけますね。
           我が子に自慢できるお土産をいっぱい持っていきたい!
2005年8月21日(日)

私たちは肉体のような物質的身体がありませんから眠る必要がありません。
睡眠を必要とする身体を持っていないのです。
休息を必要とするときは回復するまで休止するだけです。

この世界は皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。
皆さんの視覚や聴覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。それでも実在しているのです。


霊が去ると肉体はもろくも崩れてチリと化します。形体を変えてしまいます。

一方真実のあなたである霊は生き生きと輝いた姿を見せております。
心臓だの肝臓だの肺だのによって生かされているのではないのです。
肉体に生きるエネルギー、あるいは生命を維持させる上で必要なものすべてを供給しているのは霊なのです。
 
         この世とは比べ物にならない素敵なところにいるのが子供たちですね。
            きっと有意義に過ごしているに違いないと思いたいです。
       私たちもこの身体という物質を脱ぎ捨てる日を楽しみに生きていきましょう!
 
2005年8月20日(土)

死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は生命と同じく不滅です。
また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。

もとより、心ひそかに流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。
霊の力はけっして見捨てません。
必ずや援助の手が差し伸べられます。
悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。
 
 この苦しみを抱えてどうやって生きていくかをよく悩むけど、その思いも波動は下がるのですね!
 
2005年8月19日(金)

私は地上はいずれまた戻ってくる学校だと考えてるのですが、正しいでしょうか?
 
学ぶべき教訓を学ばずに終われば、それを学ぶためにまた戻ってこなければならないでしょう。
しかしこれまでのあなたの人生を振り返ってご覧になれば、万事休すと思われたときに霊の道標があなたの進むべき方角を教えてくれていることがお分かりになるはずです。

霊の力はそういう形で働いているのです。あなたは決して一人ぼっちではありません。いつもあなたと血族関係のあった霊だけでなく、血縁とは別の霊的近親関係によって結ばれている霊によっても導かれております。
神の子を導くことによって神に奉仕する、その手段として人間を導いているのです。
 
      今回の学ぶべき教訓・・・それをクリアしないとまたこの地上に来なくてはいけない。
        真実がどうであれ宿題の問題は解いておいた方がいいに決まってますね〜。
    きっと人によって問題も違うのでしょうね・・。 忍耐・優しさ・与える愛・受ける愛・強さ・賢さ・・・ 
2005年8月18日(木)

地上の籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしてる方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれたときに平然としていることは、容易なことではありません。
 
死という身体上の別離には悲しみが伴うのであるという事実を軽視するのは愚かでもありましょう。
しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れていないことを認識するべきです。
 
         わかっちゃいるけど、悲しいし寂しい・・・・認識を深めねば!
                        
2005年8月17日(水)

死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。
何一つ恐がる要素はありません。死が自由をもたらしてくれるのです。
 
 
肉体的年齢と霊的成長度とを混同してはいけません。
大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の問題です。

りんごが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。
 
 
ですから、寿命というものを忘れることです。長生きすること自体は大切ではありません。
 
      たとえ短い人生でももう今回の人生の学びを終えた子供たちは、
                尊敬するべき魂だったのですね。

2005年8月16日(火)

この世敵なものをなるべく捨てて霊的なものを求める生き方が理想なのでしょうか、それとも出来るだけ多くの地上的体験を積むべきなのでしょうか。
 
物質というものを霊から切り離して、あたかも水も通さないほど両者が仕切られているかに思ってはいけません。両者には密接な相互関係があります。
地上にいる間は、霊が物質を支配していても物質がその支配の程度を規制しております。


地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来た時に霊に十分な備えができているように、さまざまな体験を積むことです。
まずこの地球に来るのはそのためです。

地上はトレーニングセンターのようなものです。
霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です。
 
 霊的な事実だけを追い求めても、本当の学びにはならないということですね〜。
 物質世界で応用してこそのスピリチュアリズムなのでしょう。私たちはその素材がい〜ぱいあるね^^;
2005年8月15日(月)

あなた方の進む道は、霊界からあなた方を愛してる大勢の霊が必ず示してくれます。
それは地上での血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。
われわれはみな同じ霊的巡礼を続ける仲間です。


不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。
知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるのです。


皆さんは宇宙最大のエネルギーとのつながりが持てるのです。これまでに知られた物質世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。
いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。
 
      目に見えるものの力が大きいと信じていた頃の恐怖心はもうなくなりました。
    子供たちのエネルギーはどんな恐い人間や事件からも守ってくれるように思いますね!
2005年8月14日(日)

よく理解していただきたいのは、あなた方人間にとって物質は個体性があり実感があり、
霊という何だか影のようで実体がないかに思えるのでしょうが、
私たち霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、
反対に物質の方が影のようで実体感がないということです。


と言っても、人間がしゃべるように必要な器官は霊にはありません。
しゃべる必要がないからです。

こちらの世界では思念で通じ合っています。
お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。

霊界では思念は実体のある存在なのです。
存在するものすべてが思念でこしらえられているのです。
ですから必要と思うものはどんなものでも手に入れることができるのです。
 
       人間の言葉は本心ではなかったりして難しいですが、
           あちらはガラスのように透き通って心が見える(伝わる)。
             子供達のようにピュアな魂はすぐに慣れて暮らしているのではないかな?
2005年8月13日(土)

霊界へ行っても地上と同じように何らかの携帯を具えるのでしょうか。
 
立派な胴体と、他人と区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。
また他人を認識するための感覚もちゃんと備えております。
霊の世界で生きていく上で必要な霊的期間が全部そろっています。

ちゃんと姿があります。形体を具えております。個人的存在を有しております。
備えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で暮らして行くうえで必要な霊的器官を備えています。
 
      光になると言いますが、ちゃんと形としても存在していると思うと嬉しいですよね。
        自由自在の世界なのでしょう。あの時のままの姿でいてほしいものです。
 
2005年8月12日(金)

こちらには昼も夜もありません。地軸の回転が存在しないからです。
太陽のまわりを回転してるのではありません。こちらには永遠の光が存在します。


こちらへ来てからも仕事があります。が、それは自分がやりたいと思う仕事であって、
お金を稼ぐためとか家賃を払うためとか衣服や食料を買うためにするのではありません。

地上で発揮されることのなかった才能を存分に発揮して、霊界の住民として全体の豊かさの向上に寄与することができます。

みんな自分がしたいと思うことにたずさわっております。霊界は無限の種類の楽しみがあります。

音楽が好きであれば地上と霊界の名曲を鑑賞することができます。コンサートも開かれております。
文学が得意な人は地上と霊界の名作を読むことができます。
絵画に興味のある人も傑作を鑑賞することができます。
 
           そうだよね!そういう世界であってほしいです。
     こどもたちが夢を新しい世界で実現できてれば親として1番の喜びです。
 
2005年8月11日(木)

地上に生まれてくるそもそもの目的は、魂が真の自我を見出すこと、言いかえれば、宿された神聖に点火し、燃え上がらせ、輝かしい炎とすることです。

残念ながら必ずしもそういう具合に行かないのが実情です。
迷信と無知の暗闇、疑念と恐怖と困惑の泥沼の中で過ごす人が多すぎるのです。


そうした中で一人でも真理に目覚めさせてあげることができれば、それだけであなたの存在価値があったことになります。たった一人でいいのです。それで十分なのです。
 
          悲しみにどっぷりと漬かってしまう生活をしがちな私達ですが、
      何かの機会に一人の人にでもこの霊的真理をお伝えすることができたとしたら、
    我が子の死を無駄にしなかったことになりますね。 きっと我が子も喜んでくれるはずです。
2005年8月10日(水)

受け入れる用意ができていないとだめなのです。
霊的真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見つけるのです。


あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。
理解力を増せばさらに多くの真理を受け取ることができます。
 
 物質的な身体や脳は老化していくけど、霊的な事を理解しようとすることは心一つなのかも・・。
 我が子と同じぐらいには進化したい・・この年齢からでもまったく遅くないからがんばるしかない。
 
2005年8月9日(火)

一人の人間が他の一人を救おうと努力するとき、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨らませようと努めます。

善行の努力が無駄にされることは絶対にありません。

誰かが先頭に立って藪を開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて道らしき道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。
 
     子供を亡くすという人生の中でもっとも過酷な体験をした私たち。
  その先を歩くにはあまりにも暗すぎて1歩も進めない人ばかりです。かつて私もそうでした。
 そんな時に知らせていただいた一筋の明かりのある道。我が子の魂は存在してるという事実でした。
2005年8月8日(月)

人間には自由意志が認められています。
定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、その基本のパターンそのものを変えることはできません。
定められたコースを自分で切り抜けていかねばなりません。


ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。
みずから求めるものでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。


何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません
 
           たとえあることをした結果が人を苦しめてしまったとしても、
              その人の最初の動機が<善意>であれば、
           ちゃんと霊界側では理解していただけるということでしょう。
                そうであってほしいぃ〜と思います!
( ><)

2005年8月7日(日)

私はけっして肉体ならびにその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。
肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本姓が要求するものを無視するようにとお願いしているのではありません。

一人でも多くの人生に正しい視野を持っていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。
まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体と思い込んでいる人が多すぎます。本当は肉体を具えた霊的存在なのです。それとこれでは大違いです。
 
 似てるようだけど、大違いなんですね!本当に大切なことは目に見えない世界の方なんですね。
 
2005年8月6日(土)

「死んだ人」たちはあなたのもとを去ってしまうのではありません。
死という名のドアを通りぬけて新しい生活へ入っていくだけです。
その人たちにとっては死は大きな解放です。決して苦しいものではありません。


いくら順調に進化していても、地上にいるかぎりは相変わらず霊的なバイブレーションよりは物的なバイブレーションの方が感応しやすいものです。

縁故のあるスピリットがすぐ身のまわりにいます。
肉体に宿っていた時よりも一段と親近感を増しているのですが、人間の方は鈍重なバイブレーションにしか反応しないために、すぐ近くにいても、その高いバイブレーションに感応しないだけです。

あなた方は今この時点において立派に霊魂(スピリット)なのです。物的世界での教訓を身につけるために地上にやってきているところです。


時としてそれが辛い教訓となることがありますが、それはそれなりに価値あることではないでしょうか。

皆さんはなぜ物的な出来事をもって永遠を判断しようとなさるのでしょう。
皆さんは空の広さは計れません。地球の大きさすら計れません。
なのに、わずかな地上生活でもって永遠を計ろうとなさいます。
 
    鈍重な肉体の中にいるから、感じることができないだけで、あの子は生きていた時と同じように、
       私に甘え、寄り添ってるに違いない!声をかけてあげよう〜空間を見つめて。
                永遠に一緒に旅する魂の仲間なのだから、
             永遠の中の一時、別れて生きる時間でしかない今。。。

2005年8月5日(金)

地上で孤独な生活を余儀なくされたものは死後も同じような生活を送るのですか?
 
いえいえ、そんなことはありません。
そういう生活を余儀なくされるものにはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛するもの、縁あるものとの再会もあります。


特に愛着を感じ、慕っている人物には、たいていの場合は会うことができるでしょう。
共感の絆が両者を引き寄せるのです。
 
       私たちは最後は年老いて、我が子のお迎えを待ち焦がれているわけだから、
            老人ホームにいようが寂しく感じないでしょうね。
    そして、多くの先立った愛する人たちに再会できるわけです!たのしみだぁ〜。\^0^/

2005年8月4日(木)

地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。
あなた自身も完全ではありません。

あなたのその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しようとしている不完全な存在なのです。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。


ですから、仕事や生活の上で厄介なできごとを神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。
 
 自分が至らないことばかりだと責めてしまいがちですが、誰でも至らないからこの世に来てると思うと、
      自分を責めることは前進にはならなく、何の意味もないものだと思います。
    反省は必要だけど、その後は反省した自分を褒めて、カラッと生きたいものですよね!(^。^)  
 
2005年8月3日(水)

ある日の交霊会で死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。
この中でシルバーバーチは最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。
 
   幽界がこの世とそっくりであるというのが私には理解できないのですが・・・。
 

地上界の次の生活の場は地上の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に耐え切れないショックを与えるでしょう。

ですから、霊界への導入はやさしい段階をへながら行われることになります。
こちらへ来てすぐの生活の場は地上とひじょうによく似ております。


こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。
思念の世界ですから、思念が生活と活動にすべてに形態を与えます。
他界直後の世界は地球のすぐ近くにあり、ものの考え方がきわめて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現もきわめて土臭く、考えることがすべて物質的感覚によって行われます。


ですが、幽界の生活にも段階があり、意識の発達とともに自覚が芽生えると次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。
 
          子供たちの霊は学びができてる霊格でしょうから、
       すぐに高い階層の次元へ行っているに違いないですね!
  私たちもこの世でいっぱい霊的知識を学んで、同じ次元の素晴らしい世界に行きたいですね〜。
2005年8月2日(火)

地上世界を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一番大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。

私たちの説く真理の中でもそのことが一番大切です。それがいったん霊の世界へ行ったものが再び地上に戻ってくる、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。
それを悟ることによって生きる喜びーー神の子として当然味わうべき生きがいを見出してもらいたいという願いがあるのです。


それは、宗教、教会、教義、信念のたぐい、これまで人間を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことはありません。


自分という存在の本姓について単純きわまる真理なのです。なのにそれを正しく捉えてる人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにいます。
 
 
    180度価値観が変わってしまった私たちは、生活の些細なことは悩みでなくなり、
     物質にも執着がなくなった。
それはある意味では楽になったことでもあるでしょうが、
         比べ物にならない大きな荷物を背負っての旅になりましたよね。
 
2005年8月1日(月)

私たちの価値判断の基準は地上とは異なります。私たちは、出来ては消えていく泡のような日々の出来事を、物質の目ではなく魂の知識で見つめます。

その意味で私たちは、悲しみの涙を霊的知識によって平静と慰めに置き換えてあげる仕事にたずさわってる人に心から拍手喝采を送るものです。

地上の大方の人間があくせくとして求めているこの世俗財産を手に入れることより、たった一人の人間の魂に生きがいを見出させてあげることの方がよほど大切です。


あなたの方は悲しみの荷を背負い、暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが、それもすべては、魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接に学ぶためのものでした。
 
 子供を亡くすという体験をしてまでも学ぶことが私の魂の目的であったのだとしたら。。
 せつなすぎるけど。。でももし真実であるのであれば。。娘のためにも学ぶことをしなければ・・(><)
2005年7月31日(日)

完き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。
恐れは無知から生まれるものだからです。恐怖心はみずからの魂の牢獄をこしらえます。


皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信念を抱き、独立独歩の気構えを持たねばなりません。

 恐れ・・死に対する恐れはまったくなくなった私たちだけど、
 死後世界について無知であれば我が子のことが心配で心は乱れます。
 魂の存在を知った以上は、どんな世界なのかも知らなければ安心できないはずです。
2005年7月30日(土)

心によこしまなものさえなければ善なるものしか近づきません。
善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。
こちらの世界からも神の使徒しか近づきません。あなたがたには何一つ恐れるものはありません。
あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊からくる力にほかならないのです。

その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。
心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。
 
 ここまではっきりと強い言葉で言ってくれる人が一人でも自分の周りにいたら。。
 きっと随分と気も楽になるってものですね。
2005年7月29日(金)

一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。
いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任を取るわけにはいきません。
その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。
過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをするーーそれが法則です。


地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。
不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。
絶対に片手落ちということがありません。


一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。
原因と結果を切り離すことは出来ません。

もしもその結果が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。


自分が蒔いた種は自分で刈り取るーそうあらねばならないのです。
あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。


これからもあなたは過ちを犯します。
そしてそれに対する償いをすることになります。
そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。
過ちを犯すために地上に来たようなものです。


もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。
過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。


しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。
 
 過ちばかりの今までの人生・・・でもそれがあったから気がついたことばかりだと思わせていただける。

2005年7月28日(木)

私達スピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこの私がまっさきに認めます。
やりたいことが何でもできるとはかぎらないことは否定しません。
しかし、そのことは、私たちがあなた方自身の心臓の鼓動と同じぐらい身近な存在であるという事実とはまったく別の問題です。


私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤそれ以上にあなた方の身近な存在です。


われわれはみんな神であると同時に人間です。
ひじょうに混み入った存在、一見単純のようで奥の深い存在です。


魂というものは開発されるほど単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。
単純さと奥行きさは同じ棒の両端です。進歩は容易に得られるものではありません。
もともと容易に得られるように意図されていないのです。


われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が困難に際して支えになてくれます。その杖にすがることです。
霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません。
 
 開発された魂は単純・・・天然ボケの娘は単純だったなぁ〜
     単純かつ奥行きのある人間にならなきゃいけないのか。。(~>~)

2005年7月27日(水)

ー霊の力とはどんなものでしょうかー
 
人間によって認識されるいかなるものさしにもかからないものです。
常識的な地上の計量法でいけば霊力というものは存在しないことになります。
つまり実在とは人間の五感でとらえられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。


しかし、愛は目に見えず耳に聞こえず、色も味もないのに立派に実感があります。
確かに愛の力は強力です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強力です。


あなたがたの行動のすべて、あなた方の存在のすべては霊の力のおかげです。
物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって存在と目的と指針と生活を与えられてるのです。


物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力したところで、生命の根源は解明されません。
それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は一時的に借りているだけにすぎません。
 
  この身体は入れ物でしかなくて、本当の自分は今わが子が存在してる霊としての姿と同じもの・・。
  そう思うことでどんなに救われる思いでしょうか。やどかりのようなものですね。
 
2005年7月26日(火)

ー霊界の美を味わうことができるのは地上界で味わうことができたものだけというのは本当でしょうかー

 
そんなことがありません。それでは不公平でしょう。
地上では真の美的鑑賞力を養成する教育施設がないのですから、数知れぬ人びとが美を味わえないことになります。


霊の世界は償いの世界でもあり埋め合わせの世界でもあります。地上世界で得られなかったものが補われてバランスを取り戻すのです。

地上の人間は無限の精神のほんの一部を表現してるにすぎないことを銘記しないといけません。
わずか五感の窓があるだけです。それもいたってお粗末です。


肉体から解放されると一段と表現の範囲が大きくなります。精神が本領を発揮しはじめます。
自我の表現機関の性能が良くなるからです。


霊界にはあらゆる美が存在しますが、それを味わう能力は霊性の発達の程度いかんに掛かっています。


たとえば二人の人間に同じ光景を見せても、一人はその中に豊かさと驚異を発見し、もう一人は何も発見しないということもあります。

それにもう一つ別の種類の美ーー魂の美、精神の美、霊の美があり、そこから永遠不滅のものの有する喜びを味わうことができます。

充実した精神ーー思考力に富み、内省的で、人生の奥義を理解できる精神には一種の気高さと美しさがあります。
それは、その種のものとは縁遠い人ーー説明しようにも説明できない者には見られないものです。
 
       子供達の霊性は高いからきっと素晴らしい体験ばかりをしてることでしょう。
    私もあちらへ行ったときに娘と一緒に「わぁ〜素敵!」と一緒に感動できる魂になりたい
2005年7月25日(月)

ーー祈りは叶えられるのでしょうかーー


叶えられる時もあります。祈りの中身と動機次第です。

人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。


そもそも祈りとは人間が何かを要求してそれをわれわれが聞き、会議を開いて検討してイエスとかノーとかの返事を出すのとは違います。

祈るということは叶えられる要求が自動的に授かるような条件を整えるために自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です。
 
 
           祈りの意味を知ると毎日の祈りへの姿勢も違ってきますね!
2005年7月24日(日)

本来の住家である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私達霊団が愛と理性に訴えてることを、私は誇りに思っております。

有無を言わせず命令することはしません。ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません。

 (☆この姿勢は当初からの方針として徹底しており、
   たとえば霊言を好評するべきかについてさえバーバネルとスワッハーとの間で
   意見が対立し激論を戦わせたときもあったのに、シルバーバーチは
   そのことに一言も口をはさんでない。
   これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があってもよさそうに
   思えるのであるが、それすらなく、 実際にサイキックニューズ紙に連載され、
   やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れているーーー訳者)


私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠実を捧げてくださるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。
 
           自発的に・・ということが大切なんですね。
 何ごとも人から押し付けられ行動するより、ずっと収穫も大きいということなんでしょうね〜(><)

2005年7月23日(土)
ーもしかしたら私は明日だれかの行為によって災難に遭うかもしれません。という質問に対してー
 
そうです。それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。
苦は進化と相関関係にあります。楽しみと苦しみは両極です。同じ棒の両極です。

愛と憎しみを同じ力の二つの表現です。愛する力が憎しみとなりえますし、その逆もあり得ます。
同じく苦しみと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。

あなたの体験の「質」を決定づけるのはあなたの進化の「程度」です。

ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。
難しいことですが、しかし真実です。
苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります。


円熟した魂とは人生の有為転換のすべてを体験しつくした魂のことです。苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。底まで下りずして頂上へは上がれません。
それ以外に霊的修練の道はないのです。

あなたみずから苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じてはじめて進化が得られるのです。
進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないのです。

さて、苦しみとは一体なんでしょうか。

苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えたときの状態を言います。


が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿ってることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。
なぜなら各人が置かれてる環境はその時点において関係してる人々の進化の程度が生み出す結果であると得心してるからです。

進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません。
 
     こうなるには何度この世に旅にくることになるかわからないですねぇ〜。
        今回で終わりにしてずっとあちらで娘といたいですなぁ。
     そのためにはやっぱ。。1に努力2に努力・・ちょっと休んで泣いて・・また努力。
 
2005年7月22日(金)
事故でフィアンセを亡くした女性の「今どうしてるのでしょう?元気なのでしょうか?」という質問に対して
 
私としては若いフィアンセがあなたの身近にいらっしゃることをお聞かせすることは、精一杯あなたの力になってあげられることです。彼は今のところ何もなさっていません。

ただお側にたっておられるだけです。これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。
霊媒を通じてだけではありません。

ふだんの生活において考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。
それは大変な技術を要することです。それがマスターできるまでずっとお側から離れないでしょう。


あなたの方でも心を平静に保つ努力をしなければなりません。
それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が確かに届いていることを得心なさるでしょう。


よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションはきわめて微妙なもので、感情によってすぐに乱されるということです。

不安、ショック、悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。

心の静寂を得ることができれば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得ることができるようになれば、
それが私達の世界から必要なものをお授けする最高の条件を用意することになるのです。

感情が錯乱してる状態では、私たちは何の手出しもできません。
受容性、受身の姿勢、これが私達があなたに近づくための必須の条件です。
 
 
       
心の静寂・・・・ん〜私たちにはむずかしい課題だなぁ。。
       でも努力する意味(こどもへと繋がるため)がわかってると
             少しづつでもがんばれるかもね。
 
2005年7月21日(木)
         ー偶然の要素について質問されてー
 
世の中が偶然によって動かされることはありません。
どちらを向いてもーーー天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、
顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず普遍不滅の自然法則が存在します。
 
あなたも偶然に生まれたのではありません。
 
原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されてる整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。
全生命を創造した力はその支配のために規則ないし法則を用意したのです。
その背景としての叡智においても機構においても完璧です。
 
その法則は完璧なものです。
 
すべての生命は霊だからです。
生命が維持されるのはその本質が物質でなく霊だからです。
 
霊は生命であり生命は霊です。
 
生命が意思を持った形態をとるとき、そこには個としての霊は存在します。
そこが下等動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一部なのです。
 
人生には個人とした生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。
 
逆らえば暗黒と病気と困難と破産と悲劇と流血が生じます。
順応した生活を送れば、叡智と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。

それが黄金律の真意です。
 
人間はロボットではありません。
一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。
しかし、決断は自分で下さなければなりません。 
個人の場合でも国家の場合でも同じです。

摂理に叶った生き方をしてる人、黄金律を生活の規範として生きてる人は、大自然から、そして宇宙から、良い報いを受けます。
 
    この世には偶然はないけど、自分にも決定権があるのだから人生の舵取りも
             自分でできるということなのでしょうね・・。
 摂理に沿いながらも今後は少しでも明るい道(心中の)を歩きたいものです。(^◇^)
2005年7月20日(水)
   良心の問題ですが、これは純粋に自分自身の問題なのでしょうか?
        それとも指導霊の影響もあるのでしょうか?
 
あなたがた人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です。
純粋に自分自身の考えを生み出すことはきわめて稀です。
 
地上のラジオやテレビのチャンネルとかバイブレーション(振動)−フリークエンシー
(周波数)があるように
人間にもそれぞれのフリークエンシーがあって、その波長に合った思想、観念、
インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。
それをまた他の人が受信するわけです。
  (地上の人間どうしの場合もあるーー訳者)
 
その波長を決定するのは各自の進化の程度です。
霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。
ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです。
 
    波長が高くならないと、我が子からのインスピレーションが受けられないかもぉ〜
    高い霊格の指導霊さまについてもらえるように、毎日の心もちを正して
    いかなきゃいけないぞぉ><。
 
2005年7月19日(火)


地上に再生する目的は、地上生活から戻ってきて霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資質(実力)をつけることにあります。


前もってわかったからといって、(生まれる前に計画してくるという意味)
霊的進化にとって必要な体験を身につけることにはなりません。


たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。

霊的成長というのは実際にものごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。

その辺に地上への再生の全目的があります。

   
子供たちはきっと何らかの霊界での魂の目的がったのかもしれないな・・
          立派になろうとがんばってるんだろうか・・
               親としては応援するしかない。