スピリチュアリズムの発端について

                                「タイタニック沈没から始まった永遠の旅」 

                                   より抜粋 ( ハート出版 ) 
                              コナン・ドイル序  エステル・ステッド編  近藤千雄訳


                              当代随一の言論人ウィリアム・ステッドガ、タイタニック号とともに
                              北大西洋に沈んだ後、
                              「死後の世界は明るく美しいブルーの国・・」と現地報告してきた!
          <帯コメント>
           直木賞作家・高橋克彦氏激賞!
           信じたい。すでに別れてしまった懐かしい人たちともう一度逢える。
           何度か文章を心に刻みながら泣いた。子供を亡くした親たち、恋人や伴侶を亡くした
           すべての人に、ぜひ読んで貰いたい。
           あなたの最愛の人たちは、今も元気であなたを見守ってくれている。
           これは本ではない。愛の啓示だ。現世に生きる僕たちに与えられた最高のプレゼントである。




P153
   訳者あとがき------W.ステッドとスピリチュアリズム

ウィリアム・ステッドはスピリチュアリズムの勃興期に活躍したジャーナリストであると同時に、
みずからも貴重な自動書記通信を残した霊能者でもあった。
ステッドは1849年の生まれである。
くしくもその前年が、「スピリチュアリズム元年」と呼ばれている。そのわけは、1848年3月31日に霊界と地上界の間での
初めて暗号通信が成功したからである。
スピリチュアリズムの理解のためにも、ここでこの経験を詳しく紹介しておきたい。

●スピリチュアリズムの発端

 ニューヨーク州西部の都市ロチェスターの片田舎にハイズビルという村があり、
そこの1軒家にフォックスという、夫婦と末娘二人の家族が引っ越してきた。1848年12月のことである。

 前の住人のウィークマン氏の話によると、どうも気味悪い音がしてしょうがないので家を売りに出したいという。
が、フォックスが移り住んでしばらくは、これといって不気味な音に悩まされるということはなかった。
ただ、ネズミの仕業かと思える程度の音はよく聞かれ、何となく騒々しい家だという印象は抱いていたという。

 それが明くる年から次第に激しさを増し、3月に入ってからは、夜になると何かを叩くような音が聞こえるようになった。
音は日増しに激しさを増し、真夜中にびっくりして起きるようになった。フォックス夫妻はそのつどランプをつけて家中を
まわって点検したが、何ひとつ変わったことは見つからない。

 たとえば、ドアを叩くような音がするときはそのすぐ側に立って身構え、次に音がすると同時に開けてみるのだが、
何も見当たらない。そのうち、ついに問題の日がやってきた。

その日は雪の降る寒い日で、風も強くて窓もガタガタいっていた。毎晩のできごとに業を煮やしていた両親は、
二人の子供を自分たちの寝室で寝かせることにして、ベットを運び込んだ。そして、何が起きても騒がないように言いつけて寝た。

すると間もなく子供が、
「また変な音が・・・」と叫んだ。
「放っときなさい!」と母親が叱るように言って、布団をかぶった。
とたんに、また大きな音がした。子供は怖がってベットの上に起き上がってしまった。

その時、母親が「窓がはずれてるんじゃないかしら?」と言うので、父親が起きて窓のところへ行き、トントン、トントンと叩いて、
窓の具合を確かめた。

その時である、末娘のケートが
「お父さんが窓を叩くたびに天井から音がするよ」と言ってから、その音のする方向へ向いて
「これ、鬼さん、私のする通りにしてごらん」と言って、親指と人差し指でパチンパチンと鳴らしてみた。

すると同じ回数だけ音が返ってきた。嬉しくなったケートは、
「母さん、ホラ!」と言って、もう一度指を鳴らすと、すぐまた音が返ってきた。何べんやっても返ってくる。

そこで今度は姉のマーガレットが「今度は私のするとおりにしてごらん」と言って両手で4回叩くと、すぐさま4つ音が返ってきた。

 古来、霊騒動とか騒霊現象と呼ばれているものは西洋ではポルタガイストと呼ばれ、今も昔も話題に事欠かないが、
このケートのとっさの機転で、それがスピリチュアリズムという大発見へと一大飛躍をとげることになった。
つまり地上界と死後の世界との間で一種のモールス信号による通信が成功したのである。

 コナン・ドイルはこれを海底ケーブルを使っての大陸間の電話の開通になぞらえ、
テストエンジニアの間で最初に交わされた言葉は、ただ確認しあうだけの簡単なものだったであろうが、
その後、国家間の重大なメッセージが交わされるようになっていったのと同じで、
このケートと‘鬼さん‘との交信が、その後、死後の世界の情報がふんだんに流れ込む最初の架け橋となった。
と述べている。

 たしかに、その時の対話は他愛ないものだった。二人の娘のしてることを傍で見ていた母親が鬼さんに向かって
「じゃ、10回鳴らしてみて?」というときとんと10回音がした。
「娘のマーガレットの歳は?」と聞くと12回音がした。
「じゃあ、ケートは?」と聞くと9回鳴った。
答えてるのは何ものだろうか・・・母親は不思議でならない。自分の思念がこだましてるだけではなかろうかと
思ったが、次に問答がその疑念を打ち消した。

「あたしが生んだ子供は何人?」と聞くと7つ音がした。
「もう一度答えてみて」と言うと、やはり7回音が返ってきた。そこでもう一ついい質問に気づいた。
「7人とも今も生きてるかしら?」
これには何の返答もない。そこで
「何人生き残っているの?」と聞くと、6つ音がした。
「死んだのは何人?」と聞くと、一つだけ返ってきた。確かにそのとおりだ。
そこで、今度は質問をその正体へ向けた。

「あなたは人間なの?」−−返事がない。
そこで「霊なの?」と聞くと、そうだといわんばかりのラップ音がした。
「近所の人たちを呼んできてもいいかしら?」と聞くと、音がした。

そこで隣の家の奥さんを呼んできた。来た時はまさかと言わんばかりの笑いを浮かべていたが、間もなく真顔に変わった。
出した質問に対する答えが瞬間的でしかも正確だったからである。そして家族の人数を尋ねたときは、驚きがその極に達した。
「3人」と答えると思っていたら、「4人」と答えた。
実は幼い女の子を亡くしたばかりで、その奥さんはその場に泣き崩れたという。

このあと話題はさらに発展して、その霊の地上時代の身元は行商人で、4,5年前にこの家に行商に来た際に、
当時の住人に殺害されて金を奪われ、死体はこの家の地下室に埋められたと言う事実まで述べた。
そうしたセンセーショナルな話題に発展したことで、この怪奇現象は「ハイズビル事件」とか、
「フォックス事件」などと呼ばれるようになっていくが、スピリチュアリズムの観点からすると、この事件の持つ意義は
殺人事件の発覚にいたる以前にすでに十分に果たされていた。 

つまり、地上界とこの世界との間で交信が可能であると言うことを証明してくれた点に、
この事件の大切な意義があったのである。

   (付記ーーーー平静4年6月下旬に私は、米国のナイアガラの近くにあるリリーデールという、
     自然環境に恵まれたスピリチュアリズムのキャンプ地を訪れた。
     ここで毎年9月までいろいろな霊的行事が行われるのであるが、私が訪れたのは
     これから参加者が続々と集まってくるという時期でまだ本格的なにぎやかさは見られなかった。
     わたしがそこを訪れた最大の目的は、霊的行事に参加することよりも、
     フォックス家の家族が住んでいた家屋がそっくり運ばれてきて、他のいくつかの資料とともに
     展示してあるとの話だったので、それをこの目で確かめることにあったのであるが、
     その家屋は数年前に火事で焼失したとのことで、その跡地には銅板の記念碑残っているだけだった。

  <フォックス家を記念してーーー
     フォックス家はマーガレットが11歳、ケーティが9歳のときのこの家に住んでいて、
     1848年3月31日、人類史上はじめて人間個性の死後存続の証拠を霊界から受け取った。
     そしてそれがスピリチュリズムの発端となった。
     この家屋は1916年5月にベンジャミン・F・バートレットによって買い取られ、
     ハイズビルからここへ運ばれてきたものである>

●心霊研究と交霊界の始まり

 それというのも、この事件がきっかけとなって、全米でフォックス姉妹のような霊的媒介者(ミディアム・・のちに日本では霊媒と呼ぶようになった)と思われる人物が科学者や知識人による研究の対象とされるようになり、
交霊会という、霊界との交流の場が各地で開かれるようになっていったからである。

 米国におけるそうした動向の中で特筆すべき人物はニューヨーク州の最高裁判事、ジョン・エドマンズであろう。
州議会の議長を歴任したこともある屈指の著名文化人であり、有力な次期大統領候補であったために、
スピリチュアリズムの真実性を支持する意見を新聞紙上で発表した時は裁判官ともあろうものが何たる事、という非難を浴びた。

その主な原因は、当時は死後に関わる信仰はキリスト教が絶対であり、
教会は死者と語り合う交霊会を禁じていたからである。が、真実性を確信しきっていたエドマンズ判事は、
どちらを選ぶかの、決断を迫られていて、潔く判事職を辞任し、余生をスピリチュリズム思想の普及のために捧げている。

 <ニューヨーク・トリビューン>紙に発表した論文から一部を紹介するとー
  
   私がこの道の研究を始めたのは1851年のことで、それから2年後になってようやく、
   霊界との通信お実在に得心がいった。その正味2年と2ヶ月に及ぶ期間中に、
   実に何百種類にも及ぶ心霊現象を観察し、それを細かく、かつ注意深く記録した。
   交霊会に出席するときは必ず可能な限りメモし、帰るとすぐ、その会で起きたことを
   初めから終わりまできとんと整理するのが習わしで、その記録の精密さは、
   私がかつて本職の判事として担当したどの裁判の記録にも劣らぬほどのものだった。


●ヨーロッパにおけるスピリチュアリズム

 スピリチュアリズムがヨーロッパに飛び火してからは、英国では科学者で物理学者のウイリアム・クルックス、
博物学者のアルフレッド・ウォーレス、物理学者で哲学者のオリバー・ロッジ、古典学者のフレデリック・マイヤース、
フランスではノーベル賞受賞者のシャルル・リシェ、天文学者のカミーユ・フラマリオン、ドイツでは精神科医の
シュレンク・ノッチングといった学問畑の著名人が、専門分野を一時お預けにして本格的に調査・研究し、
その結果、一人の例外ものなく、肯定的結論、すなわち霊魂説を打ち出している。

大きな業績を残しているのが、ウイリアム・クルックス博士であるが、英国の有名な学術組織である王立協会(英国学士院)の会員に
選ばれることは大変な名誉とされているが、クルックスはその早くからの業績のゆえに29歳の若さで選ばれている。

75年には、ロイヤル・ゴールドメダルを、88年にはデヴィー・メダルを、97年にはサーの称号を、
1904年にはコプリ・メダルを、そして10年にはメリット勲位を受けている。
歴任した役職を見ても、王位協会をはじめとして科学協会、電気技術協会、英国学術協会などの会長を勤めており、
まさに英国科学者の重鎮だった。

それだけに、博士が心霊研究を独自に研究してみるという意向を発表したときの
ジャーナリズム界の反応は大歓迎の一色で、
「クルックス博士が研究してくださればもう大丈夫」と、その成果に期待した。

が、彼らが期待した成果とは、心霊現象とか交霊はみんなマヤカシであるとの断定であって、
まさかその実在を肯定することになるとは想像もしなかった。

が、まる1年後に博士が王立協会に提出した報告書は、それを全面的に肯定する内容になっていた。
そして案の定、協会は機関紙に掲載することを拒否した。

そこで、博士は自分が編集主幹をしていた季刊紙に掲載した。これが科学界とジャーナリズム界に大反響を
巻き起こした。

とくにジャーナリズム界は、その期待が裏切られただけに実に都合のいい幼稚な言い訳をしている。
「これは、もう一度、誰か他の人にやってもらわないと・・・」
むろん科学者の中にも頭から毛嫌いする人も少なくなかった。

しかし、同時に「あのクルックス博士がまさか騙されるわけがない。何かがあるはずだ・・」という信念から、
みずから研究に着手したものも少なからずいた。

その典型的な例がフランスのリシュ博士である。
リシュはノーベル賞を受賞した世界的な生理学者である。
のちに「心霊研究30年」を出版するまでに至る。