死別の悲しみがたどる道 治癒の4段階とは




    (死別の悲しみを癒す本  愛する人を亡くした時、どう生きるか PHP研究所出版より

死別の悲しみは、死が起こってから、普通1年位で、一応適応の過程を終えると言われています。
しかし、死後2年目になると、愛する者を亡くした者は、もっと大きな悲しみを経験するとも言われています。
それぞれの段階が終わるのに、どのくらいの時間がかかるのでしょうか。
それは一概にはいえません。人にもよります。
亡くなった人との関係、死別の状況、死別のあとの生きる人間関係の環境にもよります。
そうゆうものによって、悲しみの治癒が促されも、遅らされもします。
治癒の過程が、ひとつの段階から、次の段階へとすっきりと切り替わっていくという
性格のものでもありません。
多くの場合、二つの場合が部分的に併存する、部分的に重複するということも多いでしょう。
むしろその方が普通と言えます。

いずれにしても、死別の悲しみがあまりにも大きいがために、悲しみが癒される過程が始動しないという事態も起こります。
そのような場合には愛する人を亡くした人は、どうにも自分では立ち直ることができず、
誰かから、絶えず積極的な心の支えと救いを得ないと生きられないでしょう。
自殺する危険もあります
<第一段階> ショック
死別の悲しみの第一段階は訃報に接したときに始まります。
この段階は少なくとも数時間から2日は続きます。しばらくの間、一種のマヒの状態におちいります。
「信じれない」予期せぬ死の場合は特にそうでしょう。

悲しみを訓練できるものではありません。訃報を受けた人が、悲しみのあまり、その場で泣き崩れます。
悲しみを癒すという観点からは、それをむしろ抑えてはいけません。
死別の悲しみの場面では、そのような制御されない感情表現も社会的には許されてると思います。
<第二段階> 虚脱
ショックの段階の後に虚脱の段階がきます。
虚脱の段階にあるときは、人は思いのままに嘆き悲しみ、泣きどおしの状態になります。
むろん、そうさせておく方がいいのでしょう。

この段階にあるときは、自制心を失うままにしておいてかまいません。
気持ちが楽になるまで泣かしておいてあげる方がいいのです。
この状態にあるときは自分が誰であるのか、回りに誰がいるのかも、はっきりしないといいます。
気持ちが動転して、世界がグルグル回っているような感じになります。
意識もぼんやりしてるでしょう。

葬儀は遺族が物理的に引き離されることを意味します。
葬儀から家に帰ると、遺族は自分自身がズタズタに引き裂かれてしまった気持ちになるものでしょう。
愛する人が亡くなってしまって、その人が自分の生活の中に占めていた大切な空間に空洞ができたからです。
愛する人の死によって生まれた物理的な空間が、心理的な空間に変わります。
孤独感が襲います。それとのすさまじい戦いは、死を完全に受容するまで続くでしょう。
死を受容しても、生きる道を新たに探しあてねば、なおも続くでしょう。
自分を何とかしなければならないと思うでしょう。

しかし、他方であの人がいなくなってしまって、どうやって自分の生き方を立て直すことなどできるのでしょうか、というような自問自答が起こるでしょう。
この時期には夜ひとりになったときなど、泣けて泣けて仕方がないもので、一人で大声で泣き続けるときです。
 そして、愛する人のすべてのこと、愛する人が生きていたときの過去の自分の生活の詳細を思い返し続けるものです。

この段階は亡くなった人に共感と好意を持つ他人に自分の話しを聞いてもらいたいと思うときでもあります。他の人からの心の支えを強く必要とするときです。
<第三段階> ひきこもり
心理学者は、引きこもりの段階は、死別後、四週間から十週間ぐらいで終わるといいます。
多くの場合、死別後3ヶ月もすると、悲しみの症状はかなり減退します。

ひきこもりの段階にあるとき、人はどうしようもなく感じ始めるものです。
絶えず泣き崩れます。
愛する人がいなくなってしまった新しい状況に対応できないからです。
ただ、自らを苦悩にゆだねきります。

何も自分で決められません。自分に対するコントロールも失ってしまいます。
それでいて、本人もそれを意識してるといいます。
行動は「正常」のものではありません。
それでも、他人には、自分は「正常」だと思ってほしいと思います。
この段階になると病気のようなさまざまな症状に悩まされます。

不眠、絶えざる消耗感、集中力の低下、無気力感、苦痛に満ちた怒り、
自責感、マヒ感、外部環境への無関心、愛する能力の喪失、
何も手につかない感じ、異常な疲労感、異常な多弁、絶えざる不安感、パニック感、身体の震え、アルコール依存症、便秘、息切れ、胃痙攣、満腹感、胃腸不良、嘔吐感、食欲不振、下痢、胸部の痛み、足の腫れ、抜け毛、頭痛、皮膚のかゆみ、めまいなど。

死別の悲しみから生まれる症状を病気でないと認めれば、いくら治療しても症状の根本の原因を除去できません。
身体と心が一緒に原因になる心身両因性のものだと専門家は言います。

身体的な病気は、先立った大事な人を追いかけたいという願望の表現かもしれません。
死別の悲しみのある人はひきこもります。

物理的だけでなく感情的にも精神的にもひきこもります。
故人の過去の思い出にのみ生きると言う状態が起きます。
毎日が不安で落ち着きません。
自分でも、苦しみの段階がいつになったら終わるのかが、わからないからです。

死の現実を受け入れさせる為に無理強いをしてはいけません。
今は本人にとってそういう生き方が必要なのだろうと理解することです。
愛する人を亡くした人は愛する人を失っただけではありません。
自分の世界そのものを失くしてしまったのです。

だから、「ああ、私の世界は崩れてしまった。あとには、いったい何が残されているというの?」とつぶやき続けるものです。
この段階にあるときは、感情的に超過敏状態にあります。
発作的に悲しみに襲われ泣き出します。人に対しても冷淡にもなります。
話しをするのを避けようとし、強制されると怒ります。髪も衣服も乱れ放題になるでしょう。

この段階には、愛する人が死んでしまったことによる怒りと攻撃的な態度で周りの者を責めるという形で
現れることもあります。自分を助けようとしてる人にも、そうゆう態度が現れます。
亡くなった人の世話が十分できなかったと自分を責めます。

亡くなった人が、幼少の子供、才能のある人、将来有望な若者、働き盛りであったりすると、神を責める気持ちを口にしたりすることもあります。
「年寄り、ばか者、ダメな奴、怠け者が生き残ってるというのに、なぜ、あのこが」という怒りです。
これらは、ひきこもりの段階にある人の見せる典型的な行動パターンです。

急に優しくなったり、攻撃的になったりし、些細なことですぐに苛立ちます。
泣くのは、すべてを失ってしまったという絶望の訴えでしょう。
しかし、これらの行動は、なくなった人から、自分が少しづつ解放されていく過程でもあります。
新しい生き方と人間関係を模索しはじめてるのかもしれません。

この段階は生きることへの意味を見出せないといいます。
愛する人の死によって、消耗されてしまった神経エネルギーが元のレベルに向かって、再構築されていく期間と見ることができます。
<第四段階> 適応
家族や友人は本人を外界の出来事に接触させることが大切です。
そうすることによって、本人は少しずつ、無気力感から解放されていきます。
自分中心の世界から抜け出していくでしょう。
悲しいときに、なおさらのこと、自分よりももっと助けを必要としてる人たちに援助の手をさしのべるようなことをさせることもできます。
そのような新しい人生を歩むことにより、死別の悲しみのエネルギーを社会奉仕のエネルギーに転化していく人は多いです。

子供を亡くすという自分では予想もしなかった人生の苦難にあい、
その時に体験した感情は一言では言い表せないですが・・・
私は娘を亡くしてからすぐに死別に関する本を探しました。
その中には一般的な死別に対する精神科医のお決まりの言葉が並んでいました。

その中でも自分の中で少しはうなずける本からの抜粋を下記に書き出しましたが、
     正直な気持ちを申し上げると、「子供を亡くす」という体験は他の誰を失くすことよりも過酷であり、
また周りには理解できない深いものがあります。
ここに書かれていることは、子供を亡くした人ではだいぶ当てはまらない部分が多いと思います。
医師には一般的な対処できても、奥底のことは体験者でないと知りえないことなのでしょう。

私は父を学生の時に亡くしましたが、いろんな意味で悲しみに違いがあり、
自分の心の変化も大きく違いがあることを痛感しています。
今回の娘を亡くすという体験から感じたことを
この一番下に書きましたので、参考になさってくだされば嬉しいです。

このように一般的な死別後のステップがありますが、両親や友人を亡くした人でさえ、元気にもとの生活に戻れるまでの期間や経過もさまざまです。
わが子を亡くした親である私たちの、ショックや虚脱・ひきこもりの内容はとてつもなく深く大きいのはなぜでしょうか?

親として子供を育て幸せにするのが使命であり楽しみにして生きてきました。
それを奪い取られてしまった親は卵を温めていた親鳥から巣ごともぎ取ってしまったようなものです。
自分の守る子も家も未来も同時に失くした私達・・・。

ショックは何ヶ月も続きます。極限状態です。気がおかしくならない方が変だと思えるぐらいの衝撃が毎日続きます。ひきこもり状態も1年や2年はざらでしょう。5年10年という人もいます。
人と接することや何かをやろうとする気力はゼロになってしまい、この世さえ滅んでしまえばいいとさえ思うありさまです。
そんな孤独な生活を苦しみながらも生きていくなかで、人の優しさにふれる機会もなく、
どんどんと心がボロボロになっていきます。
わが子の暖かい温もりの身体や笑顔を思い出しては泣くことしかできない日々が永遠と続きます。

最後の<適応>にはどの本もこのぐらいの説明しか載っていませんでした。
他に何かないの?どうすればいい?何か教えてください!と思いましたが、子供を亡くしてない人に聞いてもしょうがない・・と思います。
症状や段階は分かったから、もっともっと1日1日をどうやって生きたらいいのか誰か教えて!!と探しました。
やはり子供を亡くした例について深くかいてある本は見つかりませんでした。

一人で悶々と絶望の涙を流し、早く死にたい・・病気になって明日にでも死ねたらどんなにいいだろう・・と思いながら、眠る。また朝がきて現実を突きつけられる・・。

そんな中、私は子供を亡くした親の会を見つけて、最初にお話を聞いていただいた方の共感してくださった言葉だけで、感激に涙が止まりませんでした。一生忘れないことでしょう。

子供を亡くすという体験を持ちながら生きていき、世間に適応しなくとも、悲しみを抱えながら生きていったっていいと思うのです。
同じ傷を持っている新しい人とに出会いと関わりを大切にし、子供の死を無駄にしないあの子の親として自分自身が誇れる生き方ができれば、それは素晴らしいことだと思います。
自分が自然体でいられればそれが亡くなった子の供養にもなるのだと思います。
ムリに世間に元気な顔を見せたり、仕事を始めたり、立ち直り策を考えたりしないで、できることをできる時にしていったらいいのだと思います。
泣きたいだけないたら、また少し頑張り、また泣いたりほえたりしながらも、1日、1年、3年、5年・・・と。

決して世間一般に合わせる必要もなく、焦ったりしないでいいのですね。
一番大切なことは、
    『愛するわが子と、この広い世界中で親子として出会えた事や思い出を宝物にし、
             精一杯生きる!』 ということです。
 

以上 本より抜粋